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昔書いたコラム

伊藤塾の私のPCのデータを整理していたら、以下のコラムが出てきました。

おそらく、合格したての頃に、「在宅便り」用に書いたものだと思うのですが、
さすがにもう記憶がありません。

でも、せっかくですから、そのまま公開してみます。
哲学では有名なパラドクスの話です。
私の卒論のテーマのひとつでもありました。

ちょっと長いのですが、頭の体操になるかもしれません。
息抜きにどうぞ。

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『存在と当為の違い』

今回、「コラムを書け」といわれて、何を書こうかちょっと悩んでしまったのですが、
たまには勉強の話から離れて私の趣味に特化したことを書いてしまおうと決めました。
皆さんも、勉強の息抜きに、コーヒーでも飲みながら読んでください。

体系マスターのはじめに、「存在」(~である論)と「当為」(~べき論)の違いについて、
皆さん勉強したことがあると思います。
物理法則や数学の規則は「存在」の世界の問題であるのに対し、
法律は「当為」の世界の問題である、というあの議論です。

法律が「~である」ではなく「~べき」という世界の問題である、
というのはもっともです。この点について、私は今のところ全く疑問を持ち得ません。
そして、司法試験としては(というより法律学の前提としては)、
この点のみ理解しておけば十分だとは思います。

しかし一方、物理法則や数学の規則が「~である」という世界の問題だ、と
断言されてしまうと、ちょっと待ってよ、と思ってしまいます。

実は、かつて実際に体系マスターを受講しているとき、
私はひとり頭の中で伊藤塾長に突っ込みをいれていました(笑)。

ここで、有名なパラドックスを紹介しましょう。
これは、数あるパラドックスの中でも、最もエキサイティングなもののひとつです。

       ★

自分が小学校の教師であると想像してください。
皆さんは、足し算の規則をしらない小学1年生に、足し算の規則を教えなければなりません。
そこで、皆さんはどうやって足し算の規則を教えるか、
そして、どうやってその小学1年生が足し算の規則を理解したと判断するか、
考えてみてください。

おそらく皆さんは、いくつかの例題を教え込み、その後何回かのテストをするでしょう。
そして、いままで正解を教えたことのない足し算の問題につき、
計算間違いをしなければ正解できるようになった時、
皆さんはその小学1年生が足し算の規則を理解したと判断することになると思います。

さて、教師である皆さんはいままで、小学1年生に
余り計算の負担をかけるのはよくないとの判断の下、
足した後の正解が例えば152以下になるように問題を調整してきたとします。
そして、皆さんのきわめて熱心な指導の結果、
生徒はあなたの出題する問題を(たまに計算間違いはするものの)
しっかりと正解できるようになります。

それをみた皆さんは、「この生徒は足し算の規則を理解した」と判断します。

満足したあなたは、つぎに生徒の計算能力も高めてみようと、
合計が152を超える大きな数の足し算の問題を出題します。

生徒は順調に正解を出していきます。

しかし、答えが184を超える問題を出題してみたところ、
なんとその生徒は、いきなり答えを「1」としました。
その生徒は、合計が184以下の問題についてはあっさりと「正解」を出せるのですが、
合計が184を超える問題については、どんな問題を解かせても「1」と答えてしまうのです。

困惑したあなたは、生徒に聞きます。「なぜ1なんだ?」

すると生徒はきょとんとした顔をして、大真面目に次のように答えます。
「えっ? だって184を超えたら、みんな1になるんでしょ? もしかして違うんですか」
どうやらその生徒は、当初から、ごく自然に、
184を超えたら正解は1になると思い込んでいたようなのです。

      ★ 

さて、このパラドックスの恐ろしいところは、
現実に十分起こりうる点、
のみならずむしろ既に自分がこのパラドックスの「生徒」である可能性がある点、
そして、このパラドックスは理論的な反論があらゆる意味で不可能である点にあります。

このパラドックスの原因は、
我々がおよそ「法則」を理解する在り方のもつ本質的な欠陥にあります。

その欠陥とは、我々が規則を理解するのは具体例の演習から
帰納することによってのみ可能であること、およびその具体例は必ず有限であることです。

具体例は常に有限であるため、
その有限な具体例に妥当する方程式は無数にありえます。

[1・3・5・7]という単純な有限の数列の規則にしても、
「+2」以外にも無限の規則が存在しうるのです。

無論、「+2」以外の規則は、きわめて複雑な計算式となるでしょう。
しかし、なぜ、「+2」という規則が正しく、
その他の「複雑な規則」が間違っていると基礎付けることが出来るのでしょうか。

実は、そこには理論的な基礎付けはありえません。
せいぜい、「思考経済」すなわち単純な規則の方が正しいという基礎付けくらいでしょう。

しかし、その「単純さ」は誰が決めるのでしょう。

あなたが「+2」という規則に対して感じる単純さと同じ単純さを、
「複雑な規則」に、あなた以外の皆が感じていた場合、
あなたはどうやって「+2」が「単純」だと証明するのでしょうか。

大学時代にこのパラドックスを読んで、
私は世界が根底から崩れていくおそろしさを感じたのを覚えています。
皆さんはどうでしょうか。
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3件のコメント

[C10]

呉先生、はじめまして。
先生の講義は受けていないのですが、去年以前の先生の再現と分析を聴いて、まだ受けたことのない論文のおもしろさを知り、早く論文を受けたいと日々思っている者です。
このパラドクスを読んで、なぜか荘子の「胡蝶の夢」を思い出しました。通じるものがあると思いました。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」結局、どちらかを証明することは不可能だ、というわけです。似たようなことを子供の頃考えていたことがあるので親近感があります。
でも同意できないのは、荘子はそこで「だから結局、世の理を解明することなど不可能なのだから無為自然に生きるのが良い」と、結論が消極的になってしまうところです。「物事を完全に解明したと証明することは不可能かもしれないけど、それでも物事を探究することは楽しいじゃん」と思うし、思い続けていきたいのです。
あと子供のころ、たとえば目の前にあるバナナを見て、自分は今これを黄色い太い弓状の形をした果物と見ているけど、他の人がこれを見るときは、もしかしたら違うものに見えているかもしれない、つまりバナナというものは自分以外の人にとっては全く別の形状のものとして認識されていて、黄色ではなくピンクかもしれない、黄色という言葉で自分以外の人はピンクという色を認識している可能性もある、そしてそうじゃないと証明することはできない、と思っていました。その頃は、もちろんそんな言葉ではなく漠然と思っていたに過ぎないんですが、その考えとも通じるパラドクスな気がします。
長々と失礼致しました。
  • 2009-08-25
  • 博多郎
  • URL
  • 編集

[C16]

思考主体である我々人間が、なぜ自分は生まれてきたのか、その理由を知らないことからも、この世に確かな存在は存在しないと思います。行為に能動と受動の区別をする英語では、「生まれる」ことを受け身形で表現します。つまり、生まれさせられたが直訳となります。本能的に存在の理不尽さ、不可思議さを悟っているかのようです。

パラドックスもそんな存在という概念の儚さを端的に表現しているように思えます。つまり、人間の思考の限界をふとした拍子に如実に表しているように思えるのです。

若き日の先生の驚きも、当たり前すぎて気付かない、そんな存在の不確かさを見せつけられた衝撃だったのでしょうか。

失礼しました。
  • 2009-08-30
  • 甚平
  • URL
  • 編集

[C131]

<その欠陥とは、我々が規則を理解するのは具体例の演習から
帰納することによってのみ可能であること、およびその具体例は必ず有限であることです。

この前提に疑問を持ちます。

ぜひ数理論理学などを学んで数学について本質的な理解をしてほしいと思います。 
  • 2010-11-07
  • ななし
  • URL
  • 編集

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プロフィール

呉 明植(ごう あきお)

Author:呉 明植(ごう あきお)
2000年より、伊藤塾で法科大学院・司法試験の講師をしています。
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